2025年4月、ダートフリークは創業35周年を迎えました。その記念すべき節目に、創業者である諸橋氏に、会社の成り立ちや成長について語ってもらいました
諸橋 勉(もろはし つとむ):株式会社ダートフリーク創業者。オフロードバイク用品の輸入販売からスタートし、1990年に同社を法人化。2020年に代表取締役を退任
一つの発想から始まった、個人商店の時代

諸橋勉氏
ダートフリークが設立されたのは1990年、今から35年前になります。話を聞くと、諸橋氏はダートフリークを創業する前、全く異なる業界で働いていたと言います。
「元々建築・土木関係の仕事に就いていました。下水工事の現場監督を務めていて、趣味としてオフロードバイクに熱中していました。オフロードバイクに乗り始めたきっかけは、高校生の頃に親戚に連れられて全日本モトクロス選手権を見に行ったことです。それから自分のバイクに乗り始めて、多摩川の河川敷や、今は日産スタジアムがあるあたりで走っていました。
当時は急激な円高の影響もあって、オフロード用品を日本国内で買うのと比べて、アメリカから輸入した方が安かったんです。モトクロスパンツを例に挙げると、当時日本で3万5000円で売られていたものが、アメリカから輸入すれば原価1万5000円程度で手に入りました。そこで、これは一つのビジネスになるんじゃないかなと、そう思って並行輸入を始めました。仲間たちにも喜んでもらえて、良いことをしているという思いでしたね。当時同じような発想で並行輸入を始めた人が6〜7人いて、僕もそのうちの1人でした」
これを機に、諸橋氏は現場監督の仕事を続けるかたわら、神奈川県川崎市のマンションの一室でオフロードバイクウエアの通販を開始します。
「始めたのは1988年です。妻の協力を得て、夜な夜な荷物をまとめて郵便局へ運ぶ日々でした。しかし、通販だけでは在庫が残ってしまい、資金繰りが厳しくなっていきました。自分は素人の状態から商売始めたので、全然上手くいきませんでした」
そんな中、並行輸入を開始してから1年後の1989年、諸橋氏は大きな決断を下します。
「全然上手くいかなくて、これはまずい、本気でやらないと終わってしまうと思ったんです。なので、勤めていた会社を辞めて本格的にお店を開くことにしました。それが1989年の12月です」
法人化と店舗展開、そして愛知への移転
1989年12月、諸橋氏は神奈川県川崎市に最初の実店舗をオープンします。
「元々勤めていた土木会社は親戚が経営していた会社だったので、退職と今後について相談したところ、会社が所有する一部のスペースを使っていいと言ってもらえました。そこを借りたのが最初で、その後1990年4月に法人化しました」
さらに、1992年には愛知県にも進出します。これは当時通信販売の顧客が愛知県に多かったことがきっかけだと言います。

当時本社の前で撮影した写真。一番右が諸橋氏
「通販の売れ行きを見ていると、愛知県からの注文がものすごく多かったんですよ。それで急遽思い立って愛知に向かったんです。着いてからは愛知県内のバイク用品店をいくつか視察したのですが、店内には最新のウエアではなく型落ちの商品が売られていました。これを見て、店舗に新しい商品が少ないから、ニューモデルを求めているライダーが通販に流れてきてるんだろうなと気づいたんです。
その日のうちに不動産屋に行って空き店舗の紹介を受けて、愛知への進出を即決しました。今思うと、行動力がすごいですよね(笑)。初めは川崎店を本店、愛知店を支店としていましたが、愛知県を本店にする方が会社的にも自分的にもメリットを多く感じたので、愛知へ引っ越そうと決めました」
現地でのリサーチ、そして行動力と決断力。これにより、ダートフリークは愛知を拠点に事業を拡大していくことになります。
“メーカー化”への転換がダートフリークの個性を作る
設立当初、諸橋氏は友人や親戚などから「オフロードバイク業界での仕事は長く続かない」と言われてきたと話します。実際、オフロードバイク業界のマーケット全体は当時から縮小傾向にありました。諸橋氏によると、日本国内におけるオフロードバイクの人気のピークは1973~74年、82~83年、そして90~91年頃にあり、約10年周期で浮き沈みを繰り返してきたと言います。
ダートフリークは創業以降、川崎・愛知に加えて札幌にもフランチャイズ店舗を出し、3店舗体制で事業を行っていた時期もありましたが、市場の縮小により2000年頃には川崎店・札幌店ともに閉店となりました。さらに、ここで追い討ちをかけたのが同業者たちの活躍でした。
「1996年~97年頃ですかね、同業者の中でも、井原商会(ウエストウッド)がどこよりも安い価格で商品を売っていたんです。しかも、僕がこれ良いなと思ったものにはもう井原さんが目をつけていました。先に安く売られると、例えそれを井原さんが手放したとしてもそれ以上の値段で売ることはできない。なので当時は、商品を全て取られてしまう……とかなり不安に駆られていました」
そんな中、どのようにして事業を拡大していったのでしょうか。ダートフリークの歴史の中で大きな転換点となったのが「メーカー化」だと言います。
「参っちゃったな、どうしようと心配だらけだった中で、じゃあ井原さんとは違うやり方で進んでいこう、そう考えた結果いろんなものを自社製品化しようと決めました。当時、アメリカから輸入していたものでも、多くは台湾とか中国などアジア圏で作られている製品がほとんどで、それらを見ると『もっとこうだったらいいのに』って思うものが多かったんです。そこで、じゃあ自分で作ってみようと思い立って、工場とのやりとりも増えて、ここからダートフリークはメーカー化していきました」
仕入れ販売から一歩踏み出し、メーカーとしての側面を伸ばそうと舵を切った諸橋氏。最初に手がけたのは靴下やアンダーウエアなど、比較的リスクの少ない製品からだったと言います。
「建築の仕事をしてたので、寸法や図面は書くことができました。なので、自分でラフを書いて、それを見せながら口頭で『こういう感じのものが欲しい』と工場の担当者に伝えてましたね。当時も会社にはバイク好きな若者たちが集まっていたので、彼らの『こういうものが欲しい!』という声を反映させながら製品開発が進んでいきました。とはいえ、いきなり重要部品を作ることはできないので、最初はソックスやアンダーウエア、スタンドや工具などを開発しました。オフロード用品の中でも隙間を狙ったものが中心でしたね。オートバイメーカーが車両全体のコストを考慮して部品開発を行うのに対し、僕らのようなアフターマーケットメーカーは部品単体にコストをかけられるので、品質の高さで勝負できると思ったんです。
特にヒットしたのは、お尻にパッドが付いたインナーパンツでした。当時はインナーウエアがほとんどなかったため、需要は爆発的でしたね。これはダートフリークの初期の経営を支える大きな柱となったと思います。一方で、失敗もありました。例えば、AMAスーパークロスやモトクロスのレース映像に日本語字幕を付けて販売しようとしたのですが、レースの開催頻度に対して字幕制作が間に合わず、在庫が多く残ってしまいました。ただ、話を聞いているとわかると思いますが、自分たちで思いついたことや作りたいものを作っていたので、大変だと思ったことは一度もないですね」
「ただ面白おかしくやってきただけ」。創業から30年を支えた諸橋氏の思い
諸橋氏が社長を務めた期間で赤字になったのはわずか1年程度、売上が落ちたのも1回のみだったと言います。これまでを振り返り「自分は行き当たりばったりだから、特に経営理念のようなものは残していないんです。ただ、楽しく、面白おかしくやってきただけ」と語ります。
また、インタビューを通して「良い社員に恵まれて、運が良かったんです」と繰り返し語っていた諸橋氏。しかしその裏には、彼自身の類稀なる行動力と発想力があったことは間違いありません。